新・雑誌を作っていたころ001
mixi日記の好評連載「雑誌を作っていたころ」(楽天ブログにも掲載しています)は、まもなく現代に追いついてしまいます。しかし読み返してみると穴が多く、補完すべき事象も少なくありません。そこで「mixiページ」を使って新シリーズを始めてみようかと思います。こっちで「新」、あっちで「真」みたいなことをやると「幻魔対戦か?」と言われそうですが、「真」を作るつもりは今のところありません。なお、「mixiページは文字化けする」との声がありましたので、ここにも置くことにしました。
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高校から大学へはエスカレーターだったから、世間で言う「受験戦争」は経験していない。そのために両親は私立の付属校に入れたのだと思うが、おかげで生来ののんびりした性格に、さらに磨きがかかることとなってしまった。
だから、大学4年になるまで、就職が大変なことだとは思っていなかった。というより、真剣にそのことを考えていなかったのだろう。なんとなく、なるようになって、どこかの会社員におさまる。 そんな風に漠然と楽観していたような気がする。
当時の夢として今でも覚えているのは、白い3階建てのビルが連なる研究所が職場で、昼休みには広い芝生で寝転んでSF小説を読んでいるというもの。そこにバレーボールがころころと転がってきて、「すみませーん」とかわいい声がする。白いふくらはぎにどぎまぎして、そこから恋が生まれるというところまでその夢は想定してあった。
しかし現実は甘くなかった。ぼくは理学部化学科の学生だったから、当然のように理系の仕事を求めた。ひとことで「理系」と言っても、物理、化学、生物、数学と分野は広い。しかも理学部と工学部では方向がまったく違う。簡単に説明すると、理学部は研究職、工学部は生産現場という感じだ。
たとえば実験をしていてデータが公式に合わないとする。理学部の学生は「もしや公式が間違っているのでは」と時間をかけて実験を繰り返すが、工学部の学生は公式がデータに沿うような「定数C」を見つけ出し、それでOKとする。だから企業から見れば工学部は即戦力、理学部は数年に1回採用すればいいという感じだった。
そこへもってきて、第2次オイルショックである。「ホメイニ師」という名前が連日新聞に登場するようになり、その騒動はやがて原油価格の高騰を招いてこの国を揺さぶった。 ちょっと前まで1バレル1ドルだった原油価格が、あっという間に数十ドルまで値上がりしたのだ。中東から輸入される原油が生命線であった日本の製造業は、揃って生存のための戦いに突入することとなった。
「来年は理学部卒は採らないよ。研究職は2、3年採らなくてもなんとかなるから」
「私学の理学部かあ。国立なら少しはチャンスがありそうだけどな」
会社訪問で出かけた大メーカー数社でそのような言葉を聞かされ、私大理系学生の就職が非常に困難であることを思い知った。 白亜の3階建ても緑の芝生も、まぶしいふくらはぎも遠くへ飛んでいった。生まれて初めて、自分の将来がまったく定かでないことを思い知らされた。
といって、メーカー以外の企業は理学部を学部指定していない。当時は企業側が求人票に欲しい学部を記入していて、それ以外の学部生は相手にされなかったのだ。ピラミッド校舎の外回廊に貼り出された求人票を毎日見つめていたが、まったく展望は開けなかった。
「オサムちゃん、就職どうなった? わたしね、出版社受けることにしたの。それで、感想文出さなきゃならないから、一緒に本屋さんに行って選ぶの手伝ってくれる?」
友人の妹で、彼女だったり、友だちだったりした子が電話してきた。そうか、出版社か。理学部を毛嫌いするかのように多くの企業が指定学部に理学部を入れていなかったが、なぜか出版社だけは全学部OKだったことを思い出した。気晴らしに彼女と一緒に池袋の芳林堂書店に出かけた。
彼女が受けたいという平凡社は、日本屈指の百科事典を出版している会社だった。よく「平凡パンチ」の平凡出版(マガジンハウス)と間違えられるが、まったくの別会社だ。それくらいはぼくでも知っていたが、それ以上の知識はなかった。会社がどこにあるのか、社員は何人くらいいるのか、初任給はいくらか。でも「出版社」と聞いて、どこか血が騒いだ。ざわっとした。高校から大学に進学するとき、第1志望・理学部化学科、第2志望・文学部国文学科と書いて、教師から「お前、本気か?」と聞かれたのは、日本語の文章が好きだという子どもの頃からの思いがあったからだ。
結局書店では、彼女に池波正太郎のエッセイ集『散歩のとき、何か食べたくなって』を選び、自分用に宇宙科学の本を手に取った。その時は知るよしもなかったが、池波氏のその本は、のちに職場となる「月刊太陽」の人気連載をまとめたものだった。担当編集者はぼくの教育係だった筒井デスク。「赤い糸」はもうすでにそこから始まっていたのだろう。
家に帰って、父親に「平凡社、コネない?」と聞いてみた。すると、予想に反して「あるぞ」という返事。母の従姉妹が紙問屋で出版社担当の部長をしているという。父とは仲が良く、酒席で平凡社の話題をよく聞かされていたのだとか。すぐ連絡を取ってもらうように頼んだ。
平凡社の応募書類は、履歴書と読書感想文。ぼくは必死で感想文を書き、これ以上は無理という丁寧な文字で履歴書を作った。そして彼女と一緒に四番町の平凡社に行き、6階建ての自社ビルに圧倒され、大理石づくめの玄関ロビーに驚き、受付デスクまでの距離に気が遠くなりながら書類を提出した。
しかし運命は無慈悲であった。最初から出版社志望だった彼女は書類選考で落ち、急に出版社を受けることにしたぼくには筆記試験の案内が届いた。
たしかに「読んでみるとおいしそうで、よだれがたれそうになりました」の繰り返しである彼女の感想文では、そうなっても仕方がなかった。読ませてもらった時、何度もそのことを指摘したのだが、「思った通りに書かないと、わたしの文章じゃない」と取り合ってもらえなかった。 その頑固さが、彼女を恋人にできなかった理由でもあったのだが。男でも女でも、聞く耳を持たない友だちは疲れる。
筆記試験の会場には、驚くほどたくさんの学生がいた。どこか別の出版社の試験と重なっているのかと思ったが、確かめてみるとすべて平凡社を受ける人たちだった。あとで聞いたが、応募者は3000人で、筆記試験を受けた人は1000人だったそうだ。合格したのはぼくを入れて4人だったから、すごい倍率だ。最初からそれを知らされていたら、たぶん受けなかったと思う。
筆記試験のあと、2回面接があった。1回目の面接の時、お茶大の女の子と仲良くなった。一緒に食事をして、お茶を飲んで、「次もまた会おうね」と言って別れた。残念なことに、2次面接の会場に彼女はいなかった。
2次面接は、役員がずらりと並んでいた。ものすごく個性的な人たちで、顔を眺めるだけで圧迫感を覚えた。地味な人たちから当たり障りのない質問を受けたあと、平家ガニのような顔をした人が「うちの本を何か読んだか」と聞いてきた。作文を書いた本について少し答えたら、「雑誌は読んだか」と聞いてきたので、「太陽なら」と答えた。
平家ガニは「太陽のどの号か?」と突っ込んできた。もう、ほかの役員のことなどお構いなしなので、この人が社長かと思った。だから「鉄道が好きなので、蒸気機関車特集を2冊持っています」と丁寧に答えた。それで終わりかと思ったら、「感想は?」とさらに追求された。しつこいなと思った。一瞬、どうしようか迷ったが、まあいいかと思っていることを正直に言うことにした。
「鉄道のような専門的な内容を取り上げる時は、監修者を立ててきちんとチェックしたほうがいいと思います。これが百科事典を出している出版社のものかと驚くほど、間違いだらけでしたから」
平家ガニは真っ赤になって言葉を失った。面接はそこで終わった。
それで合格したのかどうかは、平家ガニすなわち常務取締役兼雑誌部長兼編集総務部長の馬場一郎氏には聞けずじまいだった。聞く機会はそれから十数年の間に無数にあったのに。まあきっと、コネや運がうまく働いてくれたのだろう。同じように役員面接で面接官を怒らせた徳間書店も合格だったから、この年は怒らせた奴の勝ちだったのかもしれない。徳間では「応接室のガラスケースには立派な本が並んでいるのに、どうして御社ではヤクザ相手の週刊誌を出しているのですか?」と聞いたのだった。「お前みたいな若造に何がわかる!」とわなわなしながら立ち上がった人が、きっと「アサヒ芸能」の担当役員だったのだろう。
平凡社に入社してから数カ月は、研修期間だった。最初は出版クラブで大手出版社数社合同での新人研修。偉そうな人が毎日やってきて、「出版とは何か」「本作りの心得」「よい編集者になるために」「出版営業のABC」「著作権とは何か」といった講義をしていった。それから業界見学や書店研修。日販の流通倉庫を見て、凸版印刷の印刷ラインを見て、製本会社や製紙工場も見た。平凡社の兄弟会社である東京印書館に行って、当時最新だった電算写植の現場も見た。最後は2週間、白山上の南天堂書店に配属されて、見習い店員をやらされた。
研修期間中に、労組の人が来て「会社が用意しているポストは、百科事典、雑誌、広告、製作だ。お前たちがどこに配属になるかは、課長たちの綱引きで決まる。ま、がんばれよ」と言って帰った。なぜそんなことがわかるのか不思議だったが、どこでもいいと思っていた。
同期入社はぼくを入れて3人。内定したのは4人だったが、東大生は気が変わったらしく、「大学院に行く」と辞退したのだった。残ったのは京大の林屋、慶応の内田、そしてぼく。毎日書店の帰りに居酒屋に行っていろいろな話をしたが、東洋史専攻の林屋(その時は彼の親戚が偉い学者ばかりだとは知らなかった)が百科、エディタースクールの講座を受けていた内田(彼はのちに動物雑誌「アニマ」の編集者を経てTBS「どうぶつ奇想天外」のプロデューサーになるのだが、若死にしてしまった)が雑誌、広告研究会に入っていたぼくが広告というのが3人の予想だった。